「お前、明日から大学に行かなくていい。俺の会社に入れ」
すべての始まりは、父のその一言だった。
建築系の大学に進んだものの、当時の私はお世辞にも真面目な学生とは言えなかった。遊び呆けていた私を見かねたのだろう。4年目を迎えたある日、工務店を経営する経営者の父から、事実上の「中退勧告」を言い渡された。
そうして始まった、父の工務店での丁稚(でっち)奉公。
そこからの7年間は、まさに怒涛の日々だった。
■毎日が「職人の世界」。身内だからこその容赦ない洗礼
父は、他の従業員にはとても優しく、穏やかな経営者だった。しかし、自分の息子である私に対してだけは、信じられないほど厳しかった。
朝から晩まで現場に駆り出され、泥にまみれ、技術を叩き込まれる。
「身内だからこそ、誰よりも働け。誰よりも動け」
言葉はなくとも、父の背中がそう語っていた。
理不尽だ、と思う暇すらなかった。とにかく必死だった。
ただ、そのおかげで2年目には、工務店の仕事なら「ほぼ何でも一人でできる」レベルにまで達していた。
一人前になって周りを見渡した時、ふと思った。
「世間の一流大学を出た大人たちは、なんて適当に働いているんだ。仕事のプロとしてのプライドはないのか」と。
父の猛特訓によって、私の中には「仕事に対する絶対的なプライド」が育まれていたのだ。
■休みは月1日。残業300時間が教えてくれたこと
当時の働き方は、今では考えられないほど過酷だった。
休みは「毎月、第3日曜日のみ」。
つまり、丸1日休めるのは月にたったの1日だけ。それ以外の日は、すべて仕事だった。
「残業代は、やった分だけすべて出す」
父のその言葉通り、毎月の残業時間は200時間、300時間に達していた。
毎月300時間の残業がどれほどのものか、想像がつくだろうか。
倒れるように眠り、夜が明ける前に起きる。体は常に悲鳴を上げていた。しかし、給料袋を開けた時の衝撃は今でも覚えている。
基本給は決して高くなかったが、残業代が乗った手取りは50万円近くに跳ね上がっていたのだ。
「働けば、働いた分だけ、自分の力でお金を稼ぐことができる」
この時、20代の私の体に染み込んだ「限界突破のバイタリティ」と「稼ぐ感覚」が、のちに訪れる人生最大の暗黒期で、私と家族の命を救う最大の武器になるとは、当時の私はまだ知る由もなかった。
☆次回予告:第2話【裏切りと深夜バイトの激闘編】
父が病に倒れ、私は父の勧めで保険の世界へと足を踏み入れる。一歩ずつ階段を上り、家族のために「月給28万円」を約束された転職先へ。しかし、初出社の日、私を待っていたのは「総支給17万5千円(手取り15万円)」という残酷な裏切りだった。子供が生まれるその瞬間に突きつけられた絶望を、私はどう生き抜いたのか?

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